
皆様こんにちは。
今から20年ほど前、大好きだったおじいさんがあの世に旅立ってしまいました。
その彼が生まれたのが大正7年生まれでした。
因みに、以前放送されていたNHKテレビ小説シリーズ、「花子とアン」のモデルも大正三美人の一人、柳原白蓮でしたね。
我々昭和生まれ世代にとって、大正時代とは未知の世界です。
大正時代は1912年の大正元年から1926年の大正15年と、今の平成時代よりも短い期間しか存在していませんでした。
そんな大正時代の風俗事情について書いてみたいと思います。
戦争が一先ず落ち着いた大正時代。
明治時代に入ってきた西洋風の暮らしにも国民は慣れ、しかもそれらを楽しもうとする心の余裕まで生まれていたそうです。
デモクラシーとはつまり民主主義の事を意味しています。
つかのまの平和に文化や思想、更には女性の社会進出等が唱えられたのです。
特に日本の女性解放運動で有名なのは、当時女流文化人だった与謝野晶子と平塚雷鳥(らいてう)でしょう。
彼女達は、文字通り国家の「母性保護」についてお互いの持論を展開し、真っ向から対立しているのです。
コレが後に語り継がれる事になる「母性保護論争」と呼ばれる論争です。
妊娠・出産・育児期の女性は国家が保護すべきだと主張する平塚に対し、与謝野は「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない!」とし、女性の経済的自立の必要性を説きます。
当時、様々の文化人を巻き込んだ一大論争へと発展し、女性解放運動の一つの流れを作るに至るのです。
現代の日本では「女性活躍推進法」などの成立などにより、随分地位が向上してきている様に感じますが。
元々日本には男性と女性の差別が色濃く残る国でした。
現実には女性差別は今から考えられないモノだったそうです。
何しろ女学校(今の高校)に進学する人は同世代人口のわずか1パーセント!!だったそうです。
では現実に彼女達はどうしていたのかと言いますと、それは「結婚」です。
それも殆どが見合い結婚だったらしく、恋愛結婚等は夢のまた夢だったそうです。
仮に進学しても、縁談が決まると即退学!うーん、凄い時代です。
しかも美人は卒業まで至らないと言うのが世間の一般常識だったそうです。
どーゆう事かと言うと、美人だから縁談が決まりやすく卒業出来ないって意味なんですね。
それとは別に卒業面(卒業ヅラ)と呼ばれる言葉があったそうです。
これは、ブサイク過ぎて縁談が来ないから卒業出来る事を意味する言葉です。
現代の女性が聞くと、怒り爆発必死な言葉ですが、当時はこれがまかり通っていたから凄いモノです。
明治時代に人身売買禁止法が制定されていたのですが、大正時代に入っても貧しい家を中心にして行われていたそうです。
特に若い女性に関しては「女衒(ぜげん)」と呼ばれる風俗専門の仲介業があったそうです。
大正11年に入り「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」が発効され、人買が禁止になったのですが、それでも続いていたそうです。
そんな彼女達が働かされる!事になったのは、江戸時代から続く「遊郭」が主でした(女性の容姿等でなれない人も多くいたそう)
東京では品川遊郭が立派な建物が立ち並び、繁盛していたそうです。
玄関には「張見世」(はりみせ)と呼ばれるお女郎達が妖艶な姿態を見せており、客は掛かっている木札を取って指名していたそうです。
(大正5年以降は一応禁止された)
代金は原則前金で支払う事になっていたそうです。
その遊び代金の事を当時は「花代」と言ったそうです。
花代は地域やレベルで上下しますが、基本は2円だったみたいです。
今の価値だと安い!ってなりますが、大正5年の大学初任給が3、40円程度。
現在の初任給が20万円程度ですから、5000倍するとちょうど辻褄が合う計算になります。
つまり、10000円程度。
ちょんの間はもうちょっと安くて8000円程度。
本部屋(泊まりOK、飲食付き)が5円ですから、25000円と言う事になります。
現代の目から見ても、当時の風俗はとても安かった事が伺えますね。
売れっ子の女郎は1日に12人!!も相手する事があったそうで、回しを取ると言って男性2人を掛け持ちする事もあったそうです。
そんな時男がイカないと「早くイッてよ!」と怒鳴られる事もあったそう。
遅漏の方には非常に辛い話しです(汗)
当然、それだけの男性を相手にするのですから、梅毒等の病気に苦しむ女性も多かったそうです。
大正時代に新しく誕生した風俗サービスが「カフェー」があります。
現代のカフェを連想してしまいますが、当時のモノは現代とは若干ニュアンスが異なっていたみたいです。
カフェーが出来たのは、1911年(明治44年)銀座に開業したカフェー・プランタンが最初と言われています。
こちらのカフェーは当初、北原白秋や谷崎潤一郎等の文化人や芸術家が通っており、一般人は入りにくいお店だったそうです。
当時、立ち上げに携わった松山省三らが目指していたのは、本場パリにあるカフェみたいな、芸術談義をできる場所を目指していたそうです。
しかし唯一違ったのは、本場バリにはいない「女給仕」(要はウェイトレス)を導入した事でした。
しかも、ただコーヒーや食べ物を運んで終わりではありませんでした。
何と隣に座って接客をしてくれるのです。
これを過激に変態改造してしまったのは、商人の町大阪でした。
儲かっているモノには必ず乗っかり、模倣する。
現代でもどこかの国が当てはまりそうな感じですがwカフェーを一気に風俗化させたのは、大阪であるのは間違いありません。
当時の女給仕の給料はお客のチップでした。
要は歩合制です。
もっとチップが欲しい女給仕は過激なサービスを提供する様になります。
調べてみると、かなりきわどい事をやってくれていたそうです。
これが評判となり、全国に広がっていくのです。
稀代の変態小説家wとして有名な、かの永井荷風もこのカフェーにハマった1人。
何より遊女とストリップ嬢こよなく愛していた彼。
カフェーを題材に、小説のネタとしても度々登場しています。
このカフェーがその後のノーパン喫茶や現代のキャバクラへと繋がり、更に変形のメイドカフェ等として発展を遂げていった訳です。
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